だまされたっていいんだよ

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semスキン用のアイコン01 改めて深夜特急を読み返す semスキン用のアイコン02

  

2012年 01月 08日

遅くなりましたが、新年初投稿です。

 この年末年始に沢木耕太郎の「深夜特急」を改めて通読しました。おそらく一気に通読したのは10年ぶり4回目になるのではないかと思います。
好きな本を久しぶりに読み返すと、以前は感じなかったことに気がつくことがあります。きっとそれは読み手である自分が年をとってきたせいでしょうね。

 今回、第1便黄金宮殿と第2便ペルシャの風が一人の若者の旅日記が中心なのに比べ第3便には作者の落ち着きというか、トーンの違いがあることに気がつきました。
もちろん、アジアから始まった長い旅がロンドンで終わりを迎える章ですから、”どのように旅を終結させるのか”を模索しているのですが、単にそれだけではなくて、第1便と2便の若い人の冒険旅行の紀行文のような青臭さから抜けている感じがしたんです。

 沢木耕太郎が実際に旅をしたのは26歳のときと書いてありますから時代は1970年代前半ということになります。そして沢木耕太郎はこの旅の終わりからこの経験を10年以上経ってから深夜特急というタイトルで出版しました。

深夜特急第1便 黄金宮殿(文庫版では1,2)(1986年5月)
深夜特急第2便 ペルシャの風(文庫版では3,4)(1986年5月)
深夜特急第3便 飛光よ、飛光よ(文庫版では5,6)(1992年10月)
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 これでわかりとおり(実は文庫版の5の巻末のおまけの対談にも書かれているのですが)第3便だけは旅が終わってからなんと17年後、作者が40歳を過ぎてから書かれているんです。
このことが特に第3便飛光よ、飛光よの作品のあちらこちらに今の私に共感を呼ぶ言葉が出てくる原因なのかもしれません。

私もこの本を再度読み返すことがあるかもしれません。
第3便飛光よ、飛光よ(文庫版5,6)から、今の私が共感した文章をここに残しておきましょう。
写真は以前行ったイタリアです。
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旅は人生に似ている。以前私がそんな言葉を眼にしたら、書いた人物を軽蔑しただろう。少なくとも、これまでの私だったら、旅を人生になぞらえるような物言いには滑稽さしか感じなかったはずだ。しかし、いま、私もまた、旅は人生に似ているという気がしはじめている。たぶん、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに前に進むことはできない・・・・・・。

旅は私に二つものを与えてくれたような気がする。ひとつは、自分はどのような状況でも生き抜いていけるのだという自信であり、もうひとつは、それとは裏腹の、危険に対する鈍感さのようなものである。だがそれは結局コインの表と裏のようなものだったかもしれない。「自信」が「鈍感さ」を生んだのだ。


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あの老人は、ああやって誰か話し相手になりそうな人が来るのをまっていたのではあるまいか。英語が話せるのかと訊ねてきた彼の調子には、驚きだけではなく、話し相手が見つかったよろこびのようなものさえも混じっていたような気がする。いま思い起こせば、逃したくないという切迫した感じさえもなくはなかった。確かに、彼にはテレビも新刊本も不必要だったろう。しかし、彼もまた人だけは必要としていたのではなかったか。
 そのとき私は、自分のうちで、”彼もまた”と呟いていたことに気がついた。そう、彼もまた、と・・・・。


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旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の生涯というものがあるのかもしれない。人の人生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。何を経験しても新鮮で、どんな些細なことでも心を震わせていた時期はすでに終わっていたのだ。

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滅びるものは滅びるにまかせておけばいい。現代にシルクロードを甦らせ、息づかせるのは、学者や作家などの成熟した大人ではなく、ただ道を道として歩く、歴史にも風土にも知識のない彼らなのかもしれません。彼らがその道の途中で見たいものがあるとすれば、仏塔でもモスクでもなく、恐らくそれは自分自身であるはずです。・・・
↑ここまではQuite agree!
 ・・・・取り返しのつかない刻が過ぎていってしまったのではないかという痛切な思いが胸をかすめます。もうこのような、自分の像を求めてほっつき歩くという、臆面もない行為をし続けるといった日々が、二度と許されるとは思えません。
 ここまで思い到った時、僕を空虚にし不安にさせている喪失感の実態が、初めて見えてきたような気がしました。それは「終わってしまった」ということでした。終わってしまったのです。・・・・

↑ここだけは共感したわけではないんです。
まさに惑い。
読みながら???と思いつつ読み進んでいくとこれにはオチがあったんです。

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これからこの本を読もうと思われる方は以下は読まないほうがいいです。

 旅の最終目的地のロンドン中央郵便局から「ワレ到着セリ」という電報を日本に出すつもりだった沢木は、ロンドン中央郵便局では電報を打てないことを知り、結局電話から「ワレ到着セズ」という文面の電報を打つしぐさだけして深夜特急は完となるのです。

そう、”自分の旅には終わりがない”ということを最後の最後になって気がついたというこのエンディングの秀逸な出来。

深夜特急のすばらしさは、第1便、第2便のアジアを旅する若者の冒険だけではなく、その後も人生経験を積んできた作者がしばらくしてから改めて若い自分を振り返って書いたこの一文にもあります。
 
この最後の一文に関して、文庫版5の巻末の高田 宏との対談の中でタネが明かされています。

高田「・・・ところで、第三便の最後の一行はいつごろ考えたんですか。」
沢木「いや、本当にギリギリになってからなんです。」


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そうでしょそうでしょ、こんなこと30代で書けるはずがない、ましてや20代で旅している最中なんてありえない。
旅は旅行だけが旅ではなくて毎日の生活、人生も旅なんですね。
私は昨年なかなか海外にはいけませんでしたが、それでも毎日はやはり旅のようなもの。しかも結構ハードな旅でした。

目的地と違う列車に乗ってしまったら降りればいいんだし、引き返してもいいんだし、もし列車もバスもなければ自分で歩いていってもいい。
人より早いか遅いかの競争をしているわけでもない。
誰でも人間という生き物である限りゴールは必ずあるんだけど、それは自分があらかじめ決めることができる場所ではなく、なんとなく荘厳なことのように自分が捉えている自分自身のゴールのテープの切り方さえも答えなんかない。
ゴールは大事だけど現在の旅の延長線上の終点なのであって、毎日ゴールのことを気にしているより、今の旅を充実させなきゃ。

というのが今回の私の感想文です。
ああ、なかなかすっきりとした読後感でした。
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by travel-arrange | 2012-01-08 21:54 | 日本のアジア