第二次世界大戦中に日本と同盟国だったタイ
2014年 05月 07日
当時私の通っていた高校では理科系の生徒は日本史か世界史の片方を取ればよかったので、その二つの山川の教科書の厚さを比べて少し薄かった日本史を取ったくらいです。
それでも近代史は入試にはでないと言われており、まったく勉強した記憶がありません。
今日の話は知っていて当然のことなのかもしれませんが、私にとっては全く知らないことで驚いたことなので、要約しておこうと思います。
ただ出典のほとんどはウィキであり私の知識では正誤の判断ができないのでご容赦ください。
今日の写真はチャオプラヤー川とワットアルン。文と写真は関係がありません。
タイは東南アジアにおいて植民地支配されたことがない唯一の独立国であるということは知っていました。
だってタイには今でもフランスパンが売っていないし。
恥ずかしいことに私は第二次世界大戦中も、タイは何もしていなかったと思っていました。
改めて調べてみると・・・
日本軍にとって友好国でもあったタイ王国は、太平洋戦争におけるインドシナ半島の重要な地であり、安定が必要であった
太平洋戦争開戦と同時に日本軍はタイ王国領土に進軍を開始した。その後、1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となり、更に1942年1月25日にイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告を行った。
日本はタイ王国の独立国としての地位を尊重し、タイ王国軍との共同作戦を遂行していった。
連合国軍機によりバンコクが空襲を受ける事はあったものの、結果的にタイ国内で大規模戦闘となることはなく、終戦を迎えた。
タイ王国では終戦直前に親英米派「自由タイ」に政権が移譲されて戦勝国となっている。
第二次世界大戦史は日泰同盟史と対日レジスタンス運動史の二つの異なる視点の歴史観が相互補完的に成り立っている。
無知を承知で繰り返し言いますが、知りませんでした。
タイと日本が同盟したうえでタイも英米に宣戦布告していたなんて。
そしてそれなのに終戦直前に宗旨替えして連合国軍になっていたとは!
1941年12月8日0時日本がアメリカ合衆国、イギリスと戦闘状態に入ると、すぐに日本軍は戦隊をタイ東部とタイ南部へ進行させつつ、タイ政府ピブーン首相と日泰同盟の交渉に入った。
しかし、ピブーン首相不在のためすぐには交渉に入れず、休戦協定が締結されたのは8日午後12時となった。その連絡が伝達されるまでの間、タイ南部では日本軍とタイとの間で小規模な紛争が起こっている。
さらに10日夕方にタイ側から日泰攻守同盟の申し入れがあり、21日に正式に調印された。
この条約に伴って結ばれた協定により、両国軍は相互に協同して作戦を行い、日本軍はタイ国内の通過と作戦行動を行うことができるようになり、日本はタイ国土防衛に協力しつつ、タイ王国軍と協同して国外に侵攻作戦を行うことが可能となった。
ビブーン首相が自ら日本軍と同盟すべきと思ったのか、それとも日本軍の力に屈服したのか、はたまた巧妙な外交的手腕だったのかがこれではよくわかりません。
ただ昔からタイ人は日本人に対して友好的だったことは間違いがないようです。
日本軍のタイ王国進駐の時の様子に知っている地名がたくさん出てきます。
1941年12月8日、日本軍が午前7時、トンレサップ湖の北岸シェムリアップ付近からシソポンへ進軍開始。
アランヤプラテートを抜け、ワッタナーナコーンのタイ国軍兵舎を戦闘なく進軍し9日未明ドンムアン飛行場に到着。
トンレサップ湖の南岸にいた近衛師団主力も国境を突破。
シソポン以西で先遣隊と合流、バンコクに入り、チュラーロンコーン大学に司令部を設置した。
第3飛行集団は、8日昼ごろアランヤプラテート上空で威嚇飛行を実施中にタイ王国空軍小型機が攻撃してきたため、3機を撃墜した。
この事態に対し、ドンムアン飛行場の攻撃を準備していたが、14時に平和進駐の報を受け中止。
海上からバンコクへ進軍し、ラーマ6世橋(鉄道橋)確保することを目的にした近衛師団第4連隊第3大隊は12月3日にフーコック島に移動し待機。
8日3時から4時に多少の警察隊の抵抗を受けた以外は特に大きな抵抗を受けることなく、輸送船白馬山丸でバンコク南方バーンプー海岸に上陸。
13時40分平和裡にバンコク到着
今日の出典はウィキの「タイ王国進駐」でした。
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by travel-arrange | 2014-05-07 06:52 | バンコクの風景 | Comments(0)